オオサカジン

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2009年11月22日

グッチオ・グッチ

「最上の伝統を最上の品質で、しかも過去のよいものを現代に反映させる商品作り」をコンセプトとし、
ブランドの元祖として、いまもブランドの頂点に君臨するグッチ。その歴史は、1921年にさかのぼる。
1921年、創業者グッチオ・グッチ(GuccioGUCCI:1881年生~1953年没)が、
故郷イタリア・フィレンツェのパリネオ通りに、小規模な旅行用カバン(ラゲージ)と馬具の製造会社をオープンさせた。
グッチ氏がこの会社を起こしたきっかけは、以前働いていたイギリスのホテル(サボイ・ホテル)で、
「大金持ちが好む旅行用カバンはどんなものなのか? 」と疑問を抱いたことだと言われている。
またこのホテルでの経験を通じ、「原価は何も意味を持たない。むしろ商品の値段が高ければ高いほどそれを所有する事の価値も高くなる」という、
ブランドビジネスの基本的な考え方も身に着けた。
伝統の職人技術による、ハンドメイドの高級革製品は、その品質の高さから大好評を呼び、一気に高級ブランドとしての地位を確立。
1938年、イタリアでの圧倒的な成功を背景に、ローマのViaCondottiに新しいストアをオープン。
1947年、GUCCI最初のブランドアイコン製品である『バンブーハンドル・ハンドバッグ』 が登場した。
バンブーハンドルは現在でもGUCCIの代名詞と言えるほど大ヒットしているデザイン。
(実はバンブーバックの始まりは、当時勃発した戦争により、経済制裁されたイタリアでは牛革が不足し、
今ある革を少しでも減らさないように、持ち手を竹と革を組み合わせた、『苦肉の策』から生まれたと言われている))
1950年代に入り、ストライプ・ウエビングや、メタルビット付きモカシンシューズ等を発売しこれらも大ヒット。
1953年、グッチはアメリカ・ニューヨークに支店を出した。グッチョの反対を押し切る形で息子のアルド・グッチが開いたものだった(同年夏グッチオ・グッチ死去)。
これに伴いGUCCIは『世界的な高級ブランド』として、その名を知られるようになる。
1960年代に入り、ロンドン・パリ・パームビーチに新規店舗をオープンし、GUCCIは世界中の主要都市で成功をおさめていく。
この頃になると、『ローマの休日』で知られるオードリー=ヘップバーンや、アメリカの大女優でモナコ王妃となったグレース=ケリーや、
『ピンクパンサーシリーズ』なで知られるピーター=セラーズ達に愛用され、GUCCIはシックなハリウッドスタイルの代名詞になった。
1966年にはグレース・ケリーの為に、GUCCIはその後のブランドアイコンとなるフローラシルクスカーフを作製。
(グレース・ケリーは、モナコのレーニエ皇太子との結婚式(1956年)の、招待客への贈り物に、グッチのスカーフを選んだと言われている。)
また、ジャッキー・ケネディ(ジョン・F・ケネディ大統領夫人)がGUCCIのショルダーバッグを愛用したバッグが1999年に再登場。
現在、「ジャッキーバッグ」などの名前で知ら、クラシカルでモダンなGUCCI定番アイテムとして人気が再燃しいる。
1960年代の終わりに、創業者グッチオ・グッチの頭文字をとったGGマークが採用された。
現在のグッチ・モノグラムブームの起源である。
1970年代に入り、香港や東京といった極東への新規店舗をオープン。
アルド=グッチ(創業者グッチオ=グッチの三男でGUCCIの2代目)の代でグッチは、資産960億、支店の数は500店舗にまで成長。
GUCCIが世界的な富とステータスのシンボルになったのはアルド=グッチの功績と言っても過言ではない。
しかし、この頃からGUCCI一族内部では、2代目アルド=グッチの専制的なやり方を快く思わない血族も出てくる。
これが実は後のGUCCIに大きなスキャンダルを起こし、GUCCIが深刻な経営の危機に陥る原因になった。
1980年代、GUCCIは深刻な経営の危機に陥る。
血族間での覇権争いによるスキャンダルや、不況のあおり、
製品供給過多等の理由により、赤字続き。
品質も80年代半ばにはGGプリントのバッグが塩化ビニールによって大量生産され、希少価値が薄れ、GUCCIの人気は著しく低下。
また、この時期からGUCCIの株はその殆ど全てをInvestcorp社が保有する事に。
GUCCIが現在の人気を取り戻すキッカケは、1989年、ドーンメロー女史が副社長兼クリエイティブディレクターに就任した所から始まる。
ドーン・メロー女史は市場に溢れ過ぎてしまった商品から種類を絞り、
伝統的なバッグに現代的な味付けをして発表すると、世界的な話題になり、GUCCIには再び経営改善の兆し。
1990年、新進気鋭のデザイナー、トム・フォードがレディースウエアの主任デザイナーとして入社。
1994年にトム・フォードが全てのデザインコンセプトをコントロールするクリエイティブ・ディレクターに就任してから
GUCCIは再び快進撃を始める。
トム・フォードはそれまでのグッチの製品の要素を巧みに再構築して、
時代にフィットした製品を次々と産み出していった。
1995年には、 トム・フォード初の本格的新作発表会(サテンシャツ・モヘアジャケット・ベルベット ヒップハガー等)が、
ミラノコレクションで大成功。
トムフォードは、95年VH-1(VH-1 Fashion and Music Awards)のファッションズ・フューチャー・ベスト・ニュー・デザイナー賞、
96年VH-1 メンズウェア・アンド・ウィメンズウェア・デザイナー・オブ・ジ・イヤー、
99年VH-1 ウィメンズ・デザイナー・オブ・ジ・イヤー等を次々に獲得し、世界で最も注目されるデザイナーとして高い評価を得る。
トム・フォードの活躍によりGUCCIは倒産の危機から見事に『世界最高の人気を誇るブランド』の一つとしての復活を完全に遂げた。
これら一連のトムフォードによるGUCCIの再生劇は、「トム・フォード・シンドローム」と評す人もいる程、
業界に圧倒的な影響を与えた。
ジバンシィ、クリスチャン・ディオール、ロエベなどの大手ブランドでも、
このGUCCIの成功に倣い、新しい人材を登用して、経営の蘇生を計ろうとするほどの影響を与えた。
1995年10月GUCCI株式資本の48.2%がInvestcorpによって売却され、GUCCIはニューヨーク及びアムステルダムの証券取引所に上場。
新規株式公開は大成功を収めた。1996年3月Investcorpが残り51.8%の株を売却し、GUCCIは完全な株式会社となった。
2001年GUCCIはイブ・サンローランを買収し、サンローランのデザインもトム・フォードが手掛ける事になった。
2004年、CEOのドメニコ・デ・ソーレとトム・フォードが退任。
英蘭ユニリーバの冷凍食品部門のトップを務めたロバート・ポレットが社長兼最高責任者を務める。
トム・フォードの後任として、レディース部門のクリエイティヴ・ディレクターにトムの片腕だったといわれるアレッサンドラ・ファキネッティ(Alessandra Facchinetti)が就任。
メンズウェアのデザイナーに、ジョン・レイ (John Ray) が就任。
2005年、レディスウェアのデザイナーにイタリア人であるフリーダ・ジャンニーニ (Frida Giannini) が就任。
2006年、メンズウェアのデザイナー、ジョン・レイが辞任。フリーダ・ジャンニーニがメンズウェアも手がけ始める。
グッチ・グループは、既にグッチ家の手を離れており、フランスを本拠地とする流通会社 PPR (元 Pinault-Printemps-Redoute) の傘下にある。
グッチ・グループには、グッチ以外にも、イヴ・サンローラン、ブシュロン、セルジオ・ロッシ、バレンシアガ、ボッテガ・ヴェネタなどのブランドがある。
また、グッチグループの株式の 10% 程度を LVMH が保有している。


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